佐藤万絵子インタビュー:机の下から生まれでる世界

痕跡への拒絶感からの出発

佐藤さんが現在に続く制作を始めたのはいつからですか?

佐藤大学院を修了して、学外で発表したのは2001年の個展が最初ですが、自分にとって土台となる制作は1996年に紙袋を支持体に使った時に始まったと思っています。

その前はキャンバスや紙を支持体にしていたのですか?

佐藤キャンバスに油絵具で描いたり、紙にドローイングをしたり、パネルに布を貼ってアクリル絵具で描いたりしていました。ただ96年の春くらいから、自分が描いた線を生理的に見られない精神状況になってしまって。自分の描線を見ると吐き気がしてしまうんです。自分の手の痕跡みたいなもの、ちょっとでも自分の故意を感じるものに強い拒否感を覚えて見られなくなってしまって。

文字はどうでしたか? 文字も意味や意図があって書かれるものですよね。

佐藤ひらがなの「み」や「あ」のような文字は、私が生み出した造形的なかたちではなくて、昔からある記号という感じで、私は単にそれをなぞっている感覚で拒否感はありませんでした。でも、例えば電話をしながらメモしていて、書き間違った文字を上からぐちゃぐちゃな線で書き潰したりすると、もう故意に描いたドローイングのように見えてしまうんです。それですぐに「だめだ、もう見れない!」って慌てて紙をくしゃくしゃに丸めてしまったりもしていました。

自分の手技の痕跡が残っているものを、とにかく見ることができない。

佐藤でも、それでも絵を描きたい気持ちは湧いてくる。それで紙袋のなかに手を入れて描けば、線や色は見えなくても描く感触だけは感じられるんじゃないかと思いついて、紙袋を使い始めたんです。

佐藤さんにとって、手を動かす、紙に触れる感覚が、絵を描くうえで重要だった。

佐藤そうですね。紙や絵具の跡に触れることで、「絵のそばにいる感じ」を得るための手がかりにしたかったのだと思います。同時に、触れるということは絵が物質であると認めることでもあって、それは今の制作にも続いていることだと思います。

なるほど。

佐藤でも、「描いている絵を見ていない」という状態が「絵を描いているとは言えない」ということは、痛感していて。それで、せめて自分が絵のどの辺りを今描いているのかを確認するための装置をつくらないといけないと考えました。そこで用意したのが、木のロッカーの内側を白い紙で覆った四角い箱です。その箱の内側に向かい合うように、木片でつくった「絵に向かう椅子」を置きました。そこに腰掛けながら、例えば箱の四隅を見て「今は、あの辺りを描いているつもり」と想像しながら描いていくんです。

バーチャル(仮想的)な袋の中に入るようなイメージでしょうか。

佐藤そのときにイメージしていたのは、アトリエの壁くらいの大きな平面の画面でした。白いロッカー箱の内側を凝視しながら、自分では大画面に悠々と描いているつもりで手を動かしているのだけれど、実際には小さな紙袋にクレヨンを持った手を突っ込んで動かしているだけなわけで……。集中していると忘れてしまうけれど、紙袋の立てるカサカサという音でイメージと現実のギャップに気づいたりすると、とても悲しかった。しかも自分が描いたものを見ることができなくて、それはとてもじゃないけど「絵を描いている」とは言えないと分かっていましたから。それで、その制作手法を続けているうちに「もう一つ椅子が必要なんじゃないか?」と思ったんです。

二つ目の椅子。

佐藤さっき言った「絵を描いているとは言えない」ということにつながるんですが、私は紙袋の中に描いたものを絵だと思って信じているけれど、現実にはまったく絵になっていないんですよね。だからこそ、その無為な状況を私自身が客観的に外から眺めるための椅子が必要だと感じて。それで、「絵の外にある椅子」というものをつくりました。紙袋の中の絵具の重なりを絵だと思っている自分と、それが絵とは言えないと思っている自分。「その両方がある状態こそ、今の自分の真実なんだ」と知るための椅子が、「絵の外にある椅子」だったんです。96年から翌年の11月くらいまでは、紙袋の中に描いたりだとか、紙袋、2つの椅子、それとロッカー箱がある状態をじっと眺めたりする制作を続けていました。


見ることへの帰還

佐藤でも困ったことがあって。ある時、学科内での展示をしなきゃいけなくなったんです。

美大や芸大では、進級のための出品が必要になりますからね。

佐藤今の状態でつくっているものを作品と言っていいのか分からず、すごく悩みました。でもこのまま見せることが今の私にとってのリアルなのだとしたら、恥ずかしくてもそれしかない。それで《いま、私が絵を描くために必要な装置(展示会場型)》と名付けて、四方をガラス張りのように膜を張った箱にグラグラする研究所の装置みたいなイメージで脚を付けて展示したんです。つまりアトリエの再現ですね。大がかりな設営で、友人に助けていただきながら。

展示をしてみていかがでしたか?

佐藤いっそう追い詰められたというか、さらに「(自分で)この状態を受け入れないといけない」って思いました(苦笑)。でも、私の「紙袋の制作(現場)」と、友人たちのキャンバスに描かれた絵画が同じ地平で作品として並んでいる状態を見て、驚きと同時に「表現するというのはこういうことなんだ」と初めて知った気がします。だから、私の紙袋のそれを表現として真向から認めてくださった当時の先生方には今もすごく感謝をしています。大袈裟ではなくて、生きていく場所というか、自分の真理の場所というか……そういうものを自分で初めてつくれた気がしました。

「わたしがかつて絵を描くために必要としていた装置」解体式(部分) 制作年:1997年10月/展示場所:武蔵野美術大学課外センター展示室/素材:紙袋、クレヨン、綿ゴム

「わたしがかつて絵を描くために必要としていた装置」解体式(部分)
制作年:1997年10月/展示場所:武蔵野美術大学課外センター展示室/素材:紙袋、クレヨン、綿ゴム


その経験がきっかけになっていくんですね。

佐藤その後しばらく続けていくうちに、だんだんと紙袋の底(描いた絵の具の重なり)が見られるようになりました。自分が描いているものを見たいという欲求が出てきたんです。かなり長い時間がかかりましたけど、ちょっとずつ袋を表側に裏返していって、ようやく自分が描いていた紙袋の底を全部見ることができた。その瞬間に、もう今まで自分が「装置」と呼んでいたものを私は手放すことができるはずだと感じて。それで、その年の11月に『私がかつて絵を描くために必要としていた装置 解体式 』という個展をやって、今までに描いていた紙袋や椅子などの装置を全部展示しました。

佐藤さんは身体的な実感を掴むだけでなく、その状況を客観視することができて、初めて次のステップに進むことができるのかもしれませんね。自分の描いた線が見られないというのも、あまりにもそれが自分と密着している状態だと感じるからでしょうか?

佐藤今でもうまく言葉にできないのですが、そうだったのかもしれません。

絵が自分と密着しているものであってほしい?

佐藤はい。絵を描いていると、指の先から絵具がうぃーんと出てくればいいなって思っているんです。なので、2002年の頃までは赤い絵具を多用していました。

ラブレターのことば/ラブレターの紙 制作年:2002年/展示場所:旧桜川小学校(東京)/会場サイズ:900×700×300cm/素材:和紙、オイルスティック、針金、黒板、チョーク/撮影:柳場大

ラブレターのことば/ラブレターの紙
制作年:2002年/展示場所:旧桜川小学校(東京)会場サイズ:900×700×300cm/素材:和紙、オイルスティック、針金、黒板、チョーク/撮影:柳場大


血や肉のイメージ?

佐藤指から体液が出てきて、それで描いているようなイメージですね。そうすることで自分と絵がくっついているような、絵のなかに入っていけるような気がしていました。でもそれは色がそもそも持っている力に助けられて得られた感覚でしかなくて、自分が絵のなかに入るための技術を磨いているわけではないと思ったんです。そのままではちょっとズルいというか。そこで、自分にとって体液と感じるにはいちばん遠い色である緑や青を取り入れていくんです。

in the picture/ out of the picture 絵のなか/絵のそと 制作年:2004年/展示場所:art space kimura ASK?(東京)/作品サイズ:562×800×275cm(会場サイズ)/素材:和紙、オイルスティック、オイルパステル、スライドプロジェクター/撮影:柳場大

in the picture/ out of the picture 絵のなか/絵のそと
制作年:2004年/展示場所:art space kimura ASK?(東京)作品サイズ:562×800×275cm(会場サイズ)素材:和紙、オイルスティック、オイルパステル、スライドプロジェクター/撮影:柳場大


そのときも、支持体は紙袋や箱状のものだったんでしょうか?

佐藤02年は、会場の空間全体を使っての紙を使った制作に移っていましたね。1997年の解体式の後は、意識的に紙袋から離れようと思って、キャンバスを使ったりもしていました。でも完全に平面に描くことはできなくて、やっぱりキャンバスを箱のかたちに縫って箱の中に描いていました。木枠も使わなかったので柔らかい箱ですね。完全に箱の四隅を閉じない絵もあったり、四隅の部分は絵が広がりを感じる角度を探して縫い止めるという感じです。縫い留める部分は箱の外側にして、箱状のままにしたり、または表側に反りださせたり。キャンバスの四角が窮屈だと思っていて、その窮屈さから絵が逃れられるようなかたちを探って試行錯誤していました。

震災と植物

2011年の東日本大震災での経験が、もう一つの大きな転換になったそうですね。

佐藤地震が起きたときはアトリエにいて、揺れを感じてすぐに机の下に潜りました。1人きりで死ぬのは寂しいなと思ったのもあるんですけど、すぐそばにあった2つのベンジャミンの植木鉢をガッと衝動的に抱えたんです。もし死ぬなら一緒がいいと思って。

そこで亡くなったとしても寂しくない。

佐藤土砂と一緒に埋もれて私は死ぬかもしれない。でもいずれベンジャミンが水を含んだ土のなかで成長して、蔓を伸ばして、アトリエの家全体を包んで、一帯が緑になるっていう……。今思うとなぜかわからないですけど、反射的に机の下でそんな想像が湧いたんですね。揺れている時間、想像の世界を想い続けることで恐怖から逃れようとしたのだと思います。地震が過ぎて、そのことは一つの出来事として通り過ぎていったんですが、その後に「あれはいったいなんだったんだろう?」とたびたび思い返すようになったんです。ずるずるずるっと伸びていく蔓は、アルフォンス・ミュシャの描いたような蔓を想像してたんです。普段よく見ていた画家ではないはずなのに。

てのひらをひらいて(この夜をおし上げていく光に名前はつけずに)制作年:2012年/展示場所:群馬県立館林美術館/作品サイズ:630cm×633cm×540cm(会場サイズ)/素材:オイルスティック、オイルパステル、水彩、油彩、アクリル、コンテ/紙、合成紙、段ボール箱、銀紙、木/撮影:木暮伸也 「館林ジャンクション 中央関東の現代美術」展/写真提供:群馬県立館林美術館

てのひらをひらいて(この夜をおし上げていく光に名前はつけずに)
制作年:2012年/展示場所:群馬県立館林美術館/作品サイズ:630cm×633cm×540cm(会場サイズ)/素材:オイルスティック、オイルパステル、水彩、油彩、アクリル、コンテ/紙、合成紙、段ボール箱、銀紙、木/撮影:木暮伸也 「館林ジャンクション 中央関東の現代美術」展/写真提供:群馬県立館林美術館


アールヌーヴォー風の装飾的に描写された蔓ですね。

佐藤非常時なのに、唐突なロマンチックな風景ですよね。でも、そういう想像に助けられたんだなあ、と思って。その想像力の沸き上がり方みたいな体験が鮮烈で、まるで想像力の柱を立てて、それに掴まろうとしたような……。やっぱりこの体験とも真剣に向き合わないといけないと思いました。

そして描きはじめたのが、植物のモチーフ。

佐藤はっきりと作品に出来るかわからなかったんですけど、2011年くらいから植物のデッサンを始めました。

1997年のときとはまるで違って、純粋なデッサンとしてですか?

佐藤はい。私のイメージの中に現れた、蔓がぐーんと伸びていくような植物の生命力にすごく惹かれたんだと思うんですね。ですから作品には植物自体の持っている動的なリズムみたいなものを取り込みたいと思ったんです。例えば100種類の植物を描き分けられるようになって、それらのリズムを自分の中に取り込むことができるようになったら、きっと自分が描く描線の質も変わってくると思って。

そうすることで植物との距離も近くなる?

佐藤そうですね。デッサンが好きなのは、デッサンしているあいだって植物と1対1で向き合っている感じがするからです。じっと見ているだけでも、普段は見過ごしているような茎に生えている柔らかいほわっとした毛を発見できるけれど、描き始めると、単純に「ああ、きれいだなあ」って気持ちと、もっとずっと一緒にいられるというか。デッサンによって、見つめていてもいい理由をもらえるというか、そうした時間をずっと持続できるんです。

その体験や感覚を伺っていると、HIGURE 17-15casでの個展「机の下でラブレター」(2014年9月17日〜28日)に展示しているテーブルを模した構造物の下で紙に描いた作品は、地中や洞窟のように見えてきます。緑や茶の色彩は根や茎を思わせますし、あれは机というだけでなく土の下のイメージがあるんでしょうか?

佐藤はい。今回の描画には、空や土や草などの色を選んでいました。コンテ(クレヨンの一種)を擦りつけているとき、土の粉を擦りつけて描いている感じがしました。テーブルの上に段ボールを着色したものを配置していて、それらは上から落ちて来たものをイメージしています。本当は鋼鉄くらいの重さに感じられればいいのですが。机がそういうものから私を守ってくれて、その下で作っているみたいな感じです。

生命力の強さや広がりと同時に、守ってくれるものというイメージがあるんですね。紙がよじれたりくしゃくしゃになっているのも根のかたちを思わせます。

佐藤描線を引いている時、自分の全身が蔓の先っちょの頭の部分になっているつもりで、それが伸びていく感じで描いています。


新作個展に向けて

HIGUREでの展示は、アサヒ・アートスクエアの個展『机の下でラブレター(ポストを焦がれて)(2016年1月9日〜1月30日)に発展していく予定ですが、どのような内容を予定していますか?

佐藤HIGUREでの展示はとても大事なものになるだろうとは思っていたんですけど、自分の身長くらいの高さに天板部分が来るような大きな机をつくっていただいたので、やってみたら、すごく楽しかったんです。アサヒ・アートスクエアでも、机を継続的に発展させたいというのが今の段階での気持ちです。

私も実際に展示を体験してみて、佐藤さんが見ている世界の姿を実感できた気がします。空間の中に自ら入っていって、それを広げていくような感覚は初期から共通する感覚だと思います。紙袋のシリーズも、袋の内側という限定された空間を反転させることで絵が現れるわけで、それは概念的に世界をぐるっと反転させる行為とも言える。赤瀬川原平の《宇宙の缶詰め》は、カニ缶のパッケージのシールを内側に貼って再度封をすることによって、本来缶の外側に広がる実際の世界を缶詰めの内側にある世界へと概念的に反転させてしまう作品でした。これと同じことを佐藤さんは紙袋で行っているように思います。

佐藤恐れ多いです。少しお話が長くなってしまいますが、紙袋の制作の前、キャンバスにちゃんと絵を描けていたときに、自分の制作のテーマとして取り組んでいたのが、絵を描く際に現れる「輪郭線」の問題だったんです。何か物を描こうとするときに人は輪郭線を必要としますが、現実の世界に輪郭線は存在しない。絵を描く人の都合で後から取ってつけたような線であって、絵の上にだけ現れる線や色の濃淡(輪郭のキワ)ですよね。現実にはないのに現れる「輪郭」の在り様が不思議でならなくて、その存在について考えるための手段という感じで、ドローイングしたりキャンバスに絵を描いていました。今思うと、それは思考のための設計図だったのかもしれませんね。それで1年半くらいずっと考え続けていたと思うんですけれど、次第に行き詰まりを感じるようになって。そのとき林檎をモチーフにしていたんですが……。

キルフェボン(コンパス)制作年:2013年/サイズ:19×20×20cm/素材:水彩絵の具、オイルパステル、紙袋

キルフェボン(コンパス)
制作年:2013年/サイズ:19×20×20cm/素材:水彩絵の具、オイルパステル、紙袋


林檎ですか。

佐藤林檎をまっぷたつに切り、実の部分をスプーンでほじくり出して半球型の赤い皮だけにしたんです。それを乾燥させて「手で触れる輪郭線」を示す作品としてアクリルケースに入れていました。輪郭線について考えるための手掛かりとしてずっとそばに置いていたのですが、輪郭への好奇心から表皮の裏表を自分の手でひっくり返してしまったんです。その時に感じた罪悪感は、今でも忘れられないくらい大きいです……。実をスプーンでほじくっているときにも気分が悪くなりましたが「知るためにはなんでもやる」自分に、残虐性を見た気がしました。林檎の皮をひっくり返す自分の手から目を背けるようにしながら注意深くひっくり返したのを覚えています。でも、同時にひっくり返してしまった瞬間には爽快感もあった。林檎の痛みも感じているんですけれども、私のイタズラが完全に成功したような、何かを獲得した気持ちもある。一瞬ですけれど、自分で自分の世界の見え方を変えた気がしました。そのひりひりするような切実感と爽快感は、その後の制作の判断にもつながるっていると思います。当時も「ここから変わる」という感じがすごくしましたが、アサヒ・アートスクエアでの個展を前にして、とても近いものを感じています。

佐藤さんは自分の作品が変わっていくことへの恐怖心はないですか? それとも、どんどん変わっていってほしいと思いますか?

佐藤作品が変わっていくことへの恐怖心は、まだ今のところ感じたことが無いです。でも、これから先の作家体験で、待っているのかもしれないです。10年くらい続けた「絵のなか/絵のそと」の会場制作が、次の展開に移り始めたときに多少の批判を受けたのですが、制作を以前に戻すという選択肢はまったくなかったんです。眼の前の道ははっきり見えていないんだけれど、足元のかかとの後ろはもう崖なんだと感じているというか。恐れを感じることも多いのですが、私個人の思いが、作品制作の邪魔をすることはできるだけしたくない。それは、ずっと続く私個人の目標なんじゃないかなと思います。

モンシェール 銀座・祇園(あの夜の月)制作年:2013年/サイズ:64×42×16cm/素材:水彩絵の具、オイルパステル、紙袋

モンシェール 銀座・祇園(あの夜の月)
制作年:2013年/サイズ:64×42×16cm/素材:水彩絵の具、オイルパステル、紙袋


大別すると佐藤さんは作品に埋没するタイプのアーティストだと思います。ですが、制作に没頭するための椅子を用意すると同時に、それを俯瞰して把握するための椅子も用意している。その主観と客観のバランスが、作品をとても強いものにしていると思います。一度立ち戻って見返すというのは、佐藤さんにとって大切なことですか?

佐藤独りよがりなことが、私の欠点なので、なおさら大切にしているのだと思います(笑)。自分の心で思っていることも「それってホント?」と確かめたい。そうしないと、自分が持っていたもうひとつの見え方を無視していたり、作品に起こっている真理を、見紛いそうになります。……でも客観視するのは、本当に本当に、難しいです。そのためには、自分のやっていることからちょっと外に出ないといけない気がします。私の場合、1996年から会場制作と連動して続けてきた「紙袋の制作」が、客観的に自分の制作を眺めるための指針になりました。2013年に同シリーズが新しく展開することができましたが、それで今がようやくずっとやりたいと思っていた構想を実現する時と思えました。そのタイミングを教えてくれたのは会場制作と連動して続けてきた紙袋の作品で、すごく長い時間がかかってしまいましたがこんなこともあるのだなと、驚いています。

その構想が、ついにアサヒ・アートスクエアで実現するわけですね。

佐藤今回は12年間分のドローイングを出すというプランですが、それは2002年の個展のときから考えていたことなんです。その展示の撤収時に、ホワイトキューブ内にドローイングを全部並べてみたとき、「これはいつかに絶対つながるものだ。今見ている風景は私に必要なんだ、この風景を私は絶対に作品に展開する。」って直感したんです。だからこそ、作品を一つも処分せずに引っ越しのたびに移動してきた。作品の梱包を久しぶりに解いた時、20年前の梱包材は段ボールもガムテープもぼろぼろなひどい状態だったけど、ずっと湿気や通気性に気を配ってきて、中身の作品は無事でカビひとつありませんでした。やっと展示として展開できるチャンスが来たと思うと嬉しいです。長かったけれど待つことができて良かったです。今できる全部で果たしたいと思います。

今、わたしの絵の粒子に会いにいくところ(あの夜の月)制作年:2009年/展示場所:西武鉄道旧所沢車両工場(埼玉)/作品サイズ:500×1000×400cm/素材:紙、銀紙、段ボール、作業シート、ペンキ、オイルスティック、オイルパステル/撮影:山本糾

今、わたしの絵の粒子に会いにいくところ(あの夜の月)
制作年:2009年/展示場所:西武鉄道旧所沢車両工場(埼玉)作品サイズ:500×1000×400cm/素材:紙、銀紙、段ボール、作業シート、ペンキ、オイルスティック、オイルパステル/撮影:山本糾



インタビュー+構成=島貫泰介

(本インタビューは、2014年夏に収録されたものを編集したものです)