美術家・佐藤万絵子と、コントラバス奏者・齋藤徹。なぜこの2人が出会い、共鳴しているのか。
2015年7月、佐藤万絵子が書いた『齋藤徹さんへのお手紙─そのメロディに会いに行き、リズムにぶつかり、ハーモニーを触って、私がつかみたいもの。』を読むと、その理由がするすると紐解かれていく気がした。
佐藤万絵子は、15歳の進路選択の際、音楽大学に進むか美術大学に進むかでとても迷っていたという。ある日、音楽の道へ進む未来を想像してみた。そのときの音符にまつわるエピソードが印象深い。
「たとえば、頭のなかでなっている音は、ファとソの間にある音だとはしても、それは本当に真にファの♯なのでしょうか。それは、もしかしたら、『ファの♯とソ』のさらにその間にある微かなキワで鳴っている音なのかもしれないのです。それは、たとえば、それらを白鍵と黒鍵を同時に鳴らしてみても解決できなかったし、弦楽器のチューニングを想像してみても、納得することはできなかったのです」
齋藤徹は、いつかこんなことを語っていた。
「僕が考えるコントラバスの魅力は『雑音』です。コントラバスという楽器は、なぜあれほどの長さが必要なのか。そしてなぜ弦はあれだけの太さが必要なのか。それは倍音が出るためであり、雑音成分が載るためです。一度弦をはじくだけで、数学上の倍音の中に入らない音が、たくさんついてくる。僕は、その魅力を引き出すことに焦点をあてて演奏しているのです」
私には、この2人の話がシンクロしているように思えた。白でも黒でもない狭間や、どこにも属さない隙間にあるもの。その尊さに惹かれ、貪欲に追い求める姿勢が、2人を結びつけている気がした。
佐藤は、ずっと「描線と音楽との問題」を抱えて生きてきた。かつて音楽と一緒に描いたときの「音楽に描かされている」という感覚。どうしても受け入れられなかった「音楽が描いた線」というもの。それを今なら受け入れられるかもしれない。自分の描線としてそのまま受け止めたい。そして、2015年7月『そのメロディに会いに行く、リズムにぶつかる、ハーモニーを触る─』(ライブドローイング:佐藤万絵子、コントラバス:齋藤徹/田辺和弘/田嶋真佐雄)は実現した。
佐藤は、齋藤徹のコントラバスを聞きにライブを訪れた。何度も何度も。そして、そこで、「“自分と同じだ”と響くものを感じた」のだと言う。
「コントラバスという形の箱と、絵の具と……音楽も絵画も、同じように物質的なものとしてこの世に存在しているものです。徹さんは、その物質性と向き合いながら、音楽に聞こえるか聞こえないかの境目を探っているように感じました。音楽に聞こえてしまったほうが楽かもしれないけれど、そんなふうに受け取りやすい形で投げることはしない。音の粒がとても厳しいと思いました。私も絵は物質だということと戦って生きているつもりなので、同じように音楽で挑んでいる方がいらっしゃるんだなって。徹さんにはとうてい届かない。でも、確かに響くものを感じたんです」
齋藤もまた佐藤の作品と出会い、「これは一緒にできる」と直感した。
「線とリズム。描線がとても音楽的だな、と。自分のために描いているのではなく、いかんともしがたい感じでやっている。それがすぐわかり、とてもいいなと思いました。自分が目立とうとしていない。だから彼女の絵は強いんです」
2016年1月8日、佐藤万絵子展「机の下でラブレター(ポストを焦がれて)」前夜。2人は再会した。佐藤のライブドローイングと齋藤の即興演奏、1対1で挑む現場。それは、これから取り組んでいく制作の幕開け、佐藤いわく「トンネルの入り口を開けるダイナマイトのように危険な日」であった。
開演前。齋藤がサウンドチェックのため、会場の中央に立ち、コントラバスの弦を爪弾く。背後には、今回新たな作品として建てられた大きな窓枠。ぼんやりと白い光に包まれ、美しい低音を響かせる姿が神々しかった。「この窓のない無機質な建築物に光を取り入れてみたかったんです。空や緑、自然が窓からばーっと入ってくるイメージ」。佐藤が、無邪気な表情で教えてくれる。自らの作品である背の丈ほどの大きな机の下にちょこんと座り、遠くから齋藤を見つめる背中が恋する少女のようだった。
本番。会場のところどころに、過去18年間もの佐藤の作品が積み上げられていた。観客がその周りをぐるりと囲み2人を見つめる。そこにある作品ですら、息をひそめて音を待っているようだった。高い天井いっぱいに低音が響き渡り、空気が震えた。小さな紙に1枚、また1枚と描かれていく黒い描線。その線が広い床へとつながっていくと、直線のような尖った音がうなりをあげた。口琴のような音色の倍音が、描く指に語りかける。答えるように指は忙しなく動く。無造作に床へ落とされた弓。大きな手が弦をつかみ、ふくよかな音があふれ出すと、窓枠の下から青い描線が現れた。「“窓が開いた!”と思った瞬間から、青や緑を描いていきます」。開演前に聞いた佐藤の話を思い起こす。窓が開き、音が風に乗って踊り出したような気がした。ダイナミックなメロディと、叩くように描くオイルスティックの音が呼応する。「指先から流れ出ていく色に乗って私の体も一緒に移動できたらいいのに。いつもそう思って描線が生まれる先を見つめています」。描線の一部になるがごとく、身を削るように描く姿を見て、その言葉を深く理解した。
2人は見つめ合うことはなく、それでもどこかでお互いの存在を視界に入れながら、広い大地のような床を少しずつ移動していた。離れすぎず、近寄りすぎず、2人にしかわからないだろう心地よい距離感。描く呼吸と、奏でるリズムが同調しているようだった。塗り絵をする子どものようにうずくまり、目の前を緑に染める佐藤。赤ん坊をあやすように左右に大きく揺れ、大らかな音を奏でる齋藤。ときに父と娘のようであり、それ以前に言葉を持たない動物同士のようでもあった。描く。奏でる。線を引く。弦を弾く。色。音。振動。躍動。何もかもから解放された人間の本能を突きつけられるような空間。ときどき訪れる、ぞっとするくらいの静寂ですら本人たちは楽しんでいるようだった。佐藤がぐっと近寄り、大きなコントラバスを見上げる。齋藤の足もとは海のように美しいエメラルドグリーンで染められていた。ライブの終わりを知ったのは、その後、ふっと力が抜けたように2人が笑い合った瞬間。1時間10分。2人が紡ぐ物語の世界に迷い込んでしまったようだった。魔法が解けたかのように時間が正しく流れだす。ちゃんと自分の世界に帰ってこられた──そんな不思議な安堵感がどっと押し寄せた。
終演後、音の軌跡を辿るように会場を見つめていた齋藤に声をかけた。ディジリドゥのような土着的な音を轟かせたり、太鼓のように叩いて軽快なリズムを刻んだり、三味線のような旋律を奏でたり、楽器を床に横たわらせ琴のように弾いたり。さらには、手を叩く、雄叫びをあげる、無音で手を振る、弓で空を斬る……と、齋藤のパフォーマンスはとてつもなく自由に満ちていた。はるかにコントラバス奏者の域を超えているようだった。
「その場にあるものを使い、その場で思いつくままに動きました。いい条件をそろえて自分の得意技をやろうとすると、かえって自分が狭くなりますから。これがジャンルの違う人とやるおもしろさです。せっかくあんな怪物とやっているんだから(笑)こちらも違う世界へ行きたいと思って。三味線に関しては佐藤さんが秋田生まれなので、骨の髄に残っているものがあるだろうな、と。 彼女はあふれる才能でやっているけど、経験していない記憶が助けてくれることもあるかもよという意味もこめて」
作品=ライブ会場を見下ろせる5階に登り、描線の全景を眺めた。「すごい!」齋藤が感嘆の声を上げる。あのとき、描線の動きと共にコントラバスの雑音は浮かび上がり、描線はかつてない憧れの音符を奏でたのかもしれない。描線を奏でる。旋律を描く。そんな言葉が浮かんだ。
「描線の意味をなぞるような音を出してはいけない。説明しすぎないことが大事だと思って演奏していました。だから、薄目を開けてぼやーっと見ている状態。意味になる前の価値がない状態で佐藤さんを眺めているわけです。親密である必要はないけれど、視界の中にはいないといけない。目をつぶってしまったら自分の中のいい演奏をしてしまおうとしますから。そんなことよりもっと大事なことがあるはずです。ミラー・ニューロンの原理でいうと、彼女が描いている様子をぼんやりでも見ていたら、僕の描く神経や筋肉も同じように動くそうです。だからあのとききっと、僕も描いていて、彼女も演奏していたんです」
佐藤もまた、ときおり齋藤を見つめていた。「あれはいったいどういう目なんだろう。彼女の目のようで彼女の目じゃないのかもしれないな」。ひとりごとのように、ぼそっとつぶやいた齋藤の疑問を佐藤に投げかけてみる。
「徹さんの音を見たい。その一心でした。徹さんを見ても徹さんの音が見えないとわかっているんだけど、ちょっとでもきっかけがほしくて。音楽を発している徹さん、音楽を発している物質になっている徹さんを見たかった。決して意思疎通のために見ている感じではないです。音か? 物質か? というせめぎ合いになってくると、振動してくる音に対して、それをどう線に出したらいいのか、とても難しいところでした。でもたまに、旋律に乗れたかなってときは嬉しくなって笑いがこぼれて、思わず徹さんのほうを見てしまいました(笑)」
挑み挑まれ、導き導かれ、どちらが先に動くか。「2回くらいあった」と齋藤が語る無音無道の時間。スリリングな静寂は、2人の記憶に強く残っていた。
「セメントの大きな塊が現れて、私と徹さんの間にぎゅーっと広がってきている感じ。息もできないまま、それを押し返していくような。これからどうなるんだろう? って、先が見えないので押すことしかできなくて……。こんな展開になるなんて思いつきもしなかったし、思い浮かんだこともなかったし、あれは今まで出会ったことのない場所でした。着地点も予想できなくてとても苦しかったけど、“ここだったんだ! ここを知るためにやらせて頂いたんだ!”って最後に気づけてすごく嬉しかった。今日徹さんと一緒に新しい場所へ辿りつけた感じがします」
1月22日に、会場を再び訪れた。ひとり、ラブレターの言葉を紡ぐように密やかに制作に打ち込む佐藤の姿があった。「過去の作品を守って壊す。それを繰り返しながら過去と今を出会わせることをしていきたい」。目を輝かせながら語っていたのを思い出す。終わりと始まり。刹那と永遠。これからどんな景色を見せてくれるのだろう。会場に横たわる愛しい静けさを味わう。その隙間から、あの日の2人の音楽が聞こえてくるような気がした。
文:岡部徳枝
撮影:柳場大